別に悩みなんてないけど、泣けてくる。
amazarashiの新曲「命にふさわしい」
僕は人形という人の形を模した命のないものに心を惹かれていて、少女趣味も相まってスーパードルフィーを買おうかどうかと真剣に考えるくらいには好きです。
ハンス・ベルメールの球体間接人形の写真集を古本屋でみつけてつい買ってしまうくらいには好きです。
人形というのは自分自身を投影する役割も持ってると思います。
つまり人形が好きな自分=自分のことが好きなのだけれど、自分自身を愛することはできないジレンマを、心のない人形を介すことで慰めているんじゃないかと思ってます。
人形に意思はないのだから、そこにあるのは自分と、もう一人の自分です。
かわいいぬいぐるみなんかも好きですが、これは理由は明白で「癒される」からだけど、そこには「癒されたい自分」がぬいぐるみを通して癒してくれてるのだと思います。
だから、人は自らの中に自分自身を癒す力というものが必ずあるんだと思います。
ぬいぐるみや人形がそれを上手く引き出してくれたり、あるいは音楽がそれを引き出してくれたり、絵だったりスポーツだったり自然だったり、いろいろなものを介して癒されていくんだと思います。
自分が嫌いな人だって、本当は心の奥底では好きになりたい、そして誰かを好きになったり、好きになってもらったりしたいって思ってるはずです。
心さえなかったなら、と、自分を人形のように思って壊したくなることがあるかもしれないけど、生きているからこそそう簡単には壊れないし、痛みや悲しみは深さを増すだけで。
自分で自分を上手く癒せない人は、誰かの助けが必要なときもあります。
それでも、その「誰か」は人形やぬいぐるみと同じように、自分の中にある自分自身を癒す力を引き出すということまでしか出来ないと思います。
人に人は救えない。
なにもかもを人の所為にして、100%人に頼ることしかできない人はもはや中身のない人形になっているだけで、人形のように意志のないものを抱えられる人なんていません。
癒されたいのなら、救われたいのなら、自分の意志でどんなズタボロな心でも引きずって、どんな惨めでも悲しい、辛い、痛いと命を叫ばなければ、誰も助けたくても助けられないと思う。
人形はなんだか悲しい存在に感じるのも、僕は好きな理由だと思います。
人の形をしているのに心がない。
まるで心が欲しいと思っているかのような存在かもしれない。
そして形そのものに価値がないことを理解している人ほど、中に込められたものと共に本当に何かを大切にできるのかもしれない。
この新曲はゲーム「ニーア オートマタ」(NieR: Automata)とコラボしているみたいです。
前作のニーアレプリカントはプレイしていませんが、シリーズのドラッグオンドラグーンはかなり好きなゲームです。
マルチエンディングシステムなのに、どのエンディングでも欝エンド(ハッピーエンドがない)ゲームとして有名みたいです。
悲しいからこそ心に残る。
以前問い合わせをいただいた女性から、「あなたは良い人すぎて信用できない」みたいなことを言われたことがあります。
第一印象で良い人だと思った人で、実際そうだった人がいなかったからだそうですが、まぁ信用できないのなら仕方ないと思います。
そう簡単に信用するべきではないと思う一方で、人を信用できなくなったらそれはそれで悲しいとも思うし、人の本質を見抜く力を養うしかない気もします。
自分では良い人とは思ってないので、どう判断するかは相手に委ねています。
人と接することや悩みを聞くことが自分のプラスになっているからやっているだけで、僕は人のためにしているという気がありません。
ただ単に話を聞いたり、傍にいたりしているだけで、楽になったり救われたりする人は自分の力でそうなっていっているだけで、僕は何もしていません。
良い人どころか面倒くさがりだし、いい加減だし、マイペースだし、根暗だし、何もいいところがないくらいです。
ただ、欝エンドのゲームが好きなように、人間の心の醜さ、弱さ、脆さも、優しさや強さや純粋さと同じくらい好きです。
どうしようもなく弱くて、だから強くもなれる。
純粋だからこそ、壊れやすく、
醜いからこそ、強くいられる。
真っ黒な心も、真っ白な心も、純粋さで言えば同じことだと思う。
どっちも綺麗だと思う。
ちなみにゲーム予約しちゃいました(*・ω・*)
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